伝道者6章

6:1 私が日の下で見た悪しきことがある。それは人の上に重くのしかかる。

 日の下で私が見た悪がある。そして、それは、人に対して大きい。

6:2 神が富と財と誉れを与え、望むもので何一つ欠けることがない人がいる。しかし神は、この人がそれを楽しむことを許さず、見ず知らずの人がそれを楽しむようにされる。これは空しいこと、それは悪しき病だ。

 神が富と財と誉を与え、望む全てのことで、その人のたましいにとって欠けるものがない人。しかし、神は、彼にそこから食べるためにそれを支配させず、むしろ、見ず知らずの者がそれを食べる。これは、悪の病だ。

 ここでは、単に富んでいる人が、そこから食べることができないことを悪と言っているのではなく、「その人のたましいにとって欠けるものがない人」が、この地で、それらから何も自分のものとして食べることができないことです。霊的な良いものも、この人は味わうことができないのです。それは、霊的祝福を味わうことがない悪であり、健全でない病気のようなものです。これは、日の下での悪です。たとい、神の前に敬虔な歩みをしても、彼自身のために何も良いものを味わうことがないことです。

・「悪しき病(名詞)」→5:13,5:16「病んでいる(動詞、分詞)悪」に対応している。病は、同じ語根。

6:3 もし人が百人の子どもを持ち、多くの年月を生き、彼の年が多くなっても、彼が良き物に満足することなく、墓にも葬られなかったなら、私は言う。彼よりも死産の子のほうがましだと。

 もし、彼が百人を産み、また、多くの年を生き、また、彼の歳の日々が多くなり、しかし、彼のたましいが良いものに満足せず、またその上、彼のために埋葬がないなら、私は言った。死産の子の方が彼より良い、と。

 たましいが良いものに満足しなかったら、どれほど長く生きても意味がないのです。

6:4 その子は空しさの中に生まれて来て、闇の中に去って行き、その名は闇におおわれ、

 なぜならば、その子は、空しさの中に来た。そして、闇の中へゆく。その名は、闇の中に全く覆われる。

6:5 日の光も見ず、何も知らない。しかし、この子のほうが彼よりは安らかだ。

 その上、彼は、太陽を見なかった。また、知ることがなかった。この子にとって彼より、安らぎがある。

・「知ることがなかった」→経験しなかったこと。

6:6 彼が千年の倍も生きても、幸せな目にあわなければ。両者とも同じ所に行くではないか。

 そして、もし、千年を二回生きて、良いことを見なかったとしたら。皆、一つのところへ向かっているのではないか。

 良いことは、神の目に適った良いことです。それを見ることに価値がありますが、それを見ずに死んだなら、どんなに長く生きても、死産の子と同じです。

6:7 人の労苦はみな、自分の口のためである。しかし、その食欲は決して満たされない。

 人の労苦はみな、自分の口のため。さらに、たましいは、決して満たされない。

 人は、自分の欲を満たすために労苦します。その労苦によって、たましいは満たされないのです。人は、神の前には価値がない欲のために労苦しているのです。

6:8 知恵のある者は、愚かな者より何がまさっているだろう。人の前でどう生きるかを知っている貧しい人も、何がまさっているだろうか。

 実に、知恵ある者は、愚かな者より何がまさっているのか。神の前に謙る者が、生ける者の前を歩むことを知っていることは、何が(まさっているのか)。

 疑問文で投げ掛けていますが、聞く者に考えさせるためです。通常は、まさったものはないと言うことを言うために問いかけますが、人間的な観点からの問いかけです。しかし、ここではむしろ逆のことを言おうとしています。前節の説明になっていて、たましいが満たされることに価値があるのではないかと言おうとしています。生ける者の前を歩むことを知っていることは、この人も生ける者として歩む者であることを言っています。いずれも、まさっていることを前節の理由として説明しています。

6:9 目が見ることは、欲望のひとり歩きにまさる。これもまた空しく、風を追うようなものだ。

 目で見る外観は、たましいが歩むことより良い。。これもまた、空しく、風を追うことだ。

 目で見る外観は、たましいの歩みに関心がない人の見方です。その人たちにとって、目で見ることは良いことすなわち神の前に価値があると考えるのです。それを捉えて、そのような人の見方というものの空しさを言っています。良い言いましたが、これが真理であると言っているのではないのです。

6:10 存在するようになったものは、すでにその名がつけられ、それが人間であることも知られている。その人は、自分より力のある者と言い争うことはできない。

 存在したもので、すでにその名が呼ばれたものは何か。そして、彼は、人間であると知られている。彼は、彼より強い者と争うことはできない。

 存在しているもの全ては、神が造られ、定められたものです。そして、その方は、人間と対比されています。人間は、造り主である強い方と争うことはできません。

・「名が呼ばれる」→神が名を呼んだ。神がその特性を決定した。また、あらかじめの決定すなわち予知。

6:11 多く語れば、それだけ空しさを増す。それは、人にとって何の益になるだろうか。

 なぜならば、言葉を多くすることは、空しさを増している。人には、なんの益があるのか。

 言葉数を多くしても、それは、空しさを増しているに過ぎません。その理由は、次節に示されますが、そのようなことは、なんの益もないのです。空しいのです。

6:12 だれが知るだろうか。影のように過ごす、空しい人生において、何が人のために良いことなのかを。だれが人に告げることができるだろうか。その人の後に、日の下で何が起こるかを。

 なぜならば、自分を影のようにする限られた空しい命の日々に、命に関して何が人にとって良いか、誰が知っているだろうか。そして、日の下で彼の後に何が起こるかを誰が人に告げるだろうか。

 人は、造り主と争うことができません。その理由は、人が語れは、空しさを増すからです。この世のことだけの空しい人生において、命に関して何が良いかを告げることができる者はいないからです。神の前に命を持つことができる良いことを告げることができる者がいないのです。日の下で、この世のことだけを考えている者にとって、後に何が起こるかを告げることができる者はいないからです。